今は昔。
頃は夏。台湾から日本、そして台湾。

俺が大学1年の7月。家に帰ると、台北から葉書が届いていた。
先々週末からバイク仲間で蝶々大好き男の笹井が、婚約者を連れて台湾の山の中へ虫採りに行ってたから、何かいいのでも採れたのかと思い、軽く目を通した俺はブッ飛んだ。

そこには『私達、結婚しました 楊美紀(旧姓岩本)』の文字と、笹井の婚約者があちら風の花嫁衣装を着、笹井とは全然似ても似付かない男とにっこり微笑んでいる写真が入っていたからだ。

ヤツと彼女は5年越しの交際で、来月結納、年明け早々に式を挙げる予定だったハズなのに…

結婚って、じゃあ笹井はどうなったんだ?

慌てて笹井の家へ電話をかけて見ると、笹井本人が受話器を取った。電話で話せる事ではないので、とにかくそっちへ行く事にする。

笹井の家の玄関前で中村と出会い、部屋へ通ると奥野が先に来ていた。前田もすぐ来るらしい。みんなバイク仲間だ。

気を利かせた前田が持込んだ酒とつまみで、何となく飲み会が始まる。最初はだるそうに何も言わなかった笹井だが、アルコールが廻って口がほぐれてくる。

「…ガイドがさ、今日は止めとけって言ったんだよ。日が悪いって。けど、こっちは限られた日にちしか居られねえ訳だから、天気が良かったら行きたいだろ。無理矢理押切って山へ入ったんだ。

んで、蝶の道のアタリ付けて、追っかけてたら、急に霧が出てきてさ、俺とガイドは一緒に居たんだが、美紀が一人はぐれちまった。

ホントにひっでぇ霧で、50センチ先も見えやしねえから、探したくても動き回れねえ訳よ。

そいで、一生懸命二人して呼んだけど、返事もねえ。そのうちだんだんアイツの事、腹立ってきて、何で側に居ないんだあのバカとか、こんなに呼んでるのにわかんねえのかよコンチクショウ、とか…

霧が晴れたらアイツ、俺らから5メーターも離れてねえとこに居やがったんだけど、こっちはもう、顔も見たくねえ状態だったし、向うも何だかこっちに思いっきり腹立てて。

それで勝手にしろって事になって、アイツがホテルを飛出してった。その後は、全然。もう俺の知ったこっちゃない…」

月が替って、美紀が帰って来た。
妊娠したので、日本で子供を産むのだと言う。妊娠ってそんなに簡単にわかるものか?

それはともかく、美紀は頻繁に俺に連絡を寄越した。俺は笹井の連れで美紀の連れではなく、元彼でも今彼でもなかったのに、彼女は全然お構いなしに俺を引っ張り回した。

最初は反発も覚えたが、親の協力も得られず、微熱があるような熱い手と潤んだ目でこっちを頼ってこられると、どうしようもないなと観念せざるを得なかった。

しかし、本当に彼女の俺への頼り方は尋常ではなく、お陰で、当時交際っていた智美とは別れるわ、美紀の両親には子供の本父かと疑われるわ、俺は踏んだり蹴ったりだったが…

そんな美紀の様子に変化が現れだしたのは、年が明けて3月も終りの頃。

ずいぶん目立つようになった腹に手をやりながら、時々、笹井の事を自分から口にするようになった。

おかしな事に、笹井も俺に美紀の近況を聞いてきたりするようになった。二人とも今まで、俺や他の連中が互いの名をちらっとでもだそうものなら、ものすごい剣幕で突っかかって来たというのに。

笹井と美紀のお互いに対する言葉がずいぶん和らぎ、互いに電話し合い、笹井が彼女の下を訪れるようになるには幾日とかからなかった。

俺も少し肩の荷が下りた。
不思議な事にこの1年、父方から手紙が来る事はあっても、こちらを訪ねてくる者は一人も居なかった。

そして5月に入り、彼女の顔色がだんだん冴えなくなってきた。向こうに居る旦那とこっちに居る元彼との間で揺れているのか。でも、それは俺にはどうしようもない。

「赤ちゃん、生みたくない」
と美紀が言い出した。

「何で笹井君とあんな事でケンカしたのか、どうしてあっちであの人と結婚したのか、全然わからない。それにね、私この子が怖いの。何でだかわからないけど、凄く怖い」

「おまえさ、きっと初めての出産でナーバスになってんだよ」

とは言ったが、女性のこういうメンタルな事は、男の俺ではお手上げだ。

「違うの、この子普通じゃない。わかるのよ、私」

気のせい、で押し通したものの、美紀の様子は酷くふさぎこんで見えた。

子供は予定日より1週間早く生れ、『太一』と名付けられた。

楊氏からの指示で決めたのだと、笹井が教えてくれた。美紀はどうやら楊氏と離婚し、笹井ともう一度やり直す気らしい。

この先は俺が口出しする事でもないし、その気もない。

俺は新しい彼女を見付け、それなりの2ヶ月を過していたそんなある日、唐突に笹井から電話が入った。美紀が家で暴れて手が付けられないと言う。

急いで駆け付けると、美紀が大声で喚きながら家中のものをひっくり返しているところで、両親は為す術もなく隅の方で彼女の名を呼んでいる。

笹井は彼女から太一をかばって、体中のあちこちが傷だらけになっていた。

止めようとする俺に笹井は太一を渡し、笹井に抱きしめられてようやく悪鬼の形相で暴れ回っていた美紀は動くのを止めた。

この騒ぎの中で、太一はピィともギャアとも言わない。
「何があった?」
笹井に聞いた俺に、美紀が怒鳴り返した。

「うるさい!!みんな、そいつのせいよ。その忌々しい赤ん坊のせいよ!!そいつなんか、生まなきゃ良かった!!そいつはバケモノよ!!」

「おまえな、言っていい事と悪い事があるぞ!」

俺は物心付いて以来、初めて女性をひっぱたいた。だが、彼女はひるまなかった。

「あんたなんかに何がわかるの?バケモノをバケモノって言ってどこが悪いの。
もうたくさん、そんなヤツ欲しけりゃあんたにくれてやるわ。とっととあたしの目の前から消えてちょうだい!」

「わかった、太一は俺が預ってく。おまえらとはもう会わねぇ!」

売言葉に買言葉。最悪だ。子供は物じゃないのに…。

隅の方で固まったままの美紀の両親に目で挨拶し、俺は生後2ヶ月の太一を抱いて、自分の家へ連れて帰った。

俺に赤ん坊の世話は無理だ。
しかし、美紀の荒れは育児ノイローゼだろうから、1週間もすれば落着いて迎えに来るだろう。

そう思った俺は、母に事情を話し太一を任せた。母は快く引受けてくれたが、一つ気になる事を言った。

「この子の親御さんって、普通の人?」

「どういう事?」

母は霊感が強い。
「この子ね、まだこんなに小さいのに、“額の眼”がしっかり開いちゃってるの」

実際に目玉がある訳ではない。
母の言う“額の眼”とは、霊能者のパワーの事で、それがハッキリしているほど強く、格が有るのだそうだ。
俺には全くわからない。

「周りにこの子と同格かそれ以上の大人がいてやらないと、可哀想な事になっちゃう。うちの子だったら今しばらく閉じさせておくんだけれど、勝手な事出来ないし… 何だか、もうずいぶん酷い目に遭っちゃってるみたいね」

母の言葉がわかったのか、太一は自分から手を述べて母にしがみついた。

「大丈夫だよ、このおばあちゃんはタイちゃんに酷い事しないからね」

太一は大人しい子で、高3の弟の受験勉強の邪魔にもならず、返って弟の方が太一を構いたがって、母に注意される始末だった。

1週間経っても2週間経っても、美紀が太一を迎えに来る気配はなかった。 太一は良く笑うようになっていた。

1ヶ月が経ち、何となく、このままうちで太一を預り続けてもいいな、と思い始めた頃、 美紀と笹井の事故死が伝えられた。

二人は深夜のドライブでカーブを曲がり損ね、転落した車が炎上してその中で亡くなったのだと言う。

笹井の家と岩本の家が相談し、二人の葬儀は合同で行われる事になった。

俺が通夜に顔を出すと、美紀の両親が飛んで来た。明日の葬儀に楊氏が来て、太一を向こうに連れて帰ると言う。美紀はまだ離婚していなかったらしい。

大人の都合であっちこっちにやられる太一を可哀想に思うが、俺は親じゃないからどうしようもない。

葬儀の日、俺は太一を抱いて時間ぎりぎりに出席した。バイク仲間の“和泉のあねさん”が、俺の分の席を取っていてくれた。

太一は幼いながらに何かを感じているのか、俺の胸にしっかり顔を寄せ、騒ぎもしない。

岩本の親族の方に、何か不思議な雰囲気の男女がいた。兄妹らしいが、何と言うのだろう、峠で休んでいる時に吹いて来た一陣の風のような、透明感のある二人だった。

「もしかして、あれが美紀の旦那さんとその身内か?」

“和泉のあねさん”が俺に囁いた。

「たぶん。俺も去年、写真で見ただけですから」

葬儀が滞りなく終り、棺が霊柩車に納った。身の濃い親族は火葬場へ送って行く。

俺たちの所へ、例の二人連れがまっすぐ静かに歩いて来た。

「この度は妻と子供の事で、あなたに大変御迷惑をお掛けしました」

男の日本語は正確で淀みがなかった。

「息子を国へ連れて返ります。本当にお世話になりました。この御恩はいつか必ずお返し致します」

「ありがとうございました」と女性も言い、太一に向って手を差し伸べた。

太一は一度、俺のシャツをきゅっと掴み、それから女性の方に手を伸した。

踵を返し去って行く三人を見ながら、“和泉のあねさん”がぽつんと言った。

「おまえ、“かくえん”て知ってるか?」

「何ですか、それ?」

「中国の山に棲んでる化物一族で、時々人間の女を攫って子を孕ませ、人里へ返す。普通、18歳になれば子供は自分で山へ帰るけど、もし母親が育児を放棄したら、かくえんに殺される。かくえんの子が人里にいる時は、“楊”姓を名乗るんだと」

「…」
俺は言葉が継げなかった。

「昔は蜀の国にいたらしいけどな、こんだけ世の中開けちまったら、移動するヤツが出て来てもおかしくねぇわな」

それは“和泉のあねさん”のブラックジョークだったのかもしれない。

でも、幾ばくかの真実も含まれていたと、俺は今でも思っている。