母と娘が旅行に行った。
娘はもうすぐ嫁ぐ身、最後の母子水入らず。ありきたりの温泉宿で、特徴は海に面した・・・それだけ。
部屋に通されるとやる事がない。
駅から続く温泉街の土産物屋はだいたい覗いて来たし、夕食までにはまだ時間があった。

そこで二人はお風呂に行く事にした。
「この先の廊下を行くとあります。今でしたら丁度、夕日が綺麗ですよ」
女中さんはそう言って、忙しそうに戻って行った。

言われた通りに進むと、一本の長い廊下に出た。左右にはバーや土産物屋が並んでいた。

そこを通り過ぎて行くと、廊下は右に曲がっていた。

その正面には『男湯』『女湯』の暖簾が。中から音は聞こえない。ふたりで満喫出来そうだ。

支度を済ませ浴場に入ってみると、案の定誰もいない。
「うわー、素敵ねぇ」
娘は感嘆の声を挙げた。

正面は全面開口の窓、窓に沿って長方形の湯船。 その窓の外には夕日に光る一面の海。二人は早速湯船に入った。

娘は湯船の右奥が仕切られているのに気付いた。1メートル四方程の小さなもの。

手を入れてみると、飛び上がるほどの熱い湯だった。
「きっと足し湯ようなのね」
母の言葉で、娘は途端に興味を失った。

風呂は全く素晴らしいモノだった。
湯加減、見晴らし、なにより二人きりの解放感。

窓と浴槽の境目には、ちょうど肘を掛けるくらいの幅があった。

母は右に、娘は左に、二人並んでたわいもない話をしていた。

ゆっくりと優しい時間が過ぎて行く。

その時、母は突然悪寒を感じた。
自分の右の方から、冷たいモノが流れて来るのを感じたのだ。
普通ではない、なぜかそう直感した。

あの熱い湯船の方から、冷たい水が流れてくる等ありえない。 それに視線の端に、何かがチラついている気がしてならない。

急に恐怖感が涌いて来た。
それとなく娘の方を見てみる。
母は血の気が引く思いがした。

娘の表情。これまでに見た事のない表情。
しかも視線は自分の隣を見ている。

口はなにかを言おうとパクパク動いてるが、声は出ない様子。

母は意を決して振り返って見た。

確かに誰もいなかったはず。また、後から誰も入って来てはいないはず。

が、自分の右隣には見知らぬ女がいた。

しかも、自分達と同じ姿勢で、肘をついて外を見ている。 長い髪が邪魔して表情まではわからない。

しかし、なにか鼻歌のようなものを呟きながら外を見ている。

「おか、あさん、その人・・・」
娘はようやく声を絞り出した。
「ダメ!」
母は自分にも言い聞かすように声をあげた。

母の声に娘はハッとして、口を押さえた。

そう、別の客かも知れない。そうだとしたら、あんな事を言うのはとても失礼な事だ。

けど、誰かが入って来たなら気付くはず。ましてや、自分達のすぐ近くに来たなら尚更だ。

やっぱりおかしい。
そう思って母の方を見ると、さっきの女はいなくなっていた。

しかし母に視線を合わすと、今度は洗い場の方を指指している。

そこには、出入口に一番近い所で、勢いよく水をかぶるあの女。

何杯も、何杯も、何杯も、水をかぶっている。

娘は鳥肌が立った。
正に鬼気迫る光景だった。

母の顔色も真っ青になっている。
「もう出ようよ」小さな声で母に呟いた。

「けど、もしあれなら、失礼になるんじゃ」
母も気が動転しているようだった。
「それに」
母が続ける。
「私、あの人の後ろ恐くて通れない」
そう言う母は恐怖からなのか、少し笑みを浮かべていた。

母のその一言で、娘は気を失いそうになった。

自分も同じ。恐くて通れない!
「じゃ、どうするの?助け呼ぶ?」
「だから、普通のお客さんだったら・・・」
そう答える母にもわかっていた。あの女は異常だ。

第一あれだけ勢い良く水をかぶってるのに、水の音が聞こえてこない。

「こわいよ、どーするの、ねぇお母さん」
娘は半泣きになっていた。
「とりあえず、ここで知らんぷりしときましょ」
母はそう言い、また外を見た。

私が動揺してたんじゃ・・・自分に言い聞かせながら。

不思議だ、さっきは水の音なんて何一つ聞こえやしなかったのに、背後からはザバーッザバーッと聞こえてくる。

娘は気付いてるのだろうか?
問うてみるのも恐ろしく、身を強ばらせるばかり。

その時。
突然水をかぶる音が止んだ。

娘にも聞こえていたようだ。止んだ瞬間に、顔をこちらに向けて自分を呼んでいる。
娘は泣いていた。

けどお互いに顔を見合わせるばかりで、振り返る勇気がない。

ただただ出て行く事を望むばかり。
そのまましばらく時間が過ぎた。

「出て行ったみたい」
母は娘の方に視線をうつした。

娘は静かに下を向いていた。ただたまに、しゃくりかげるのが聞こえる。

「ほら、もう大丈夫だから、ね、もう出よう」
母の優しい声に諭され、娘はゆっくり顔を上げた。

よかった、心の底からそう思い母の方を見た。 母の後ろ。熱い湯の入った小さな湯船。

そこにいた。
髪の長いあの女。
熱くて入れるはずなんかない湯船の中に。

湯船一杯に自分の髪を浮かべて。顔を鼻から上だけ出して。 娘を見て、ただじーっと見つめて。
そしてニヤリと笑った。

「ギャー!」
娘は絶叫して母にすがりついた。

母は娘が何を見てしまったのか知りたくなかった。

寄り添う娘の肌は冷えきってしまっている。

「出よう、おかしいもの。歩けるでしょ」そう言いながら娘を立たせた。

早く、早く。もどかしくなる。
水の中がこんなに歩き辛いなんて。

それでもなんとか湯船をまたいで洗い場に出た。 娘は顔を覆ったままだから足元もおぼつかない。

出てしまえばもう大丈夫、突然安心感が涌いて来た。 母は最後に湯船を返り見てしまった。

そこには。あの女が立っていた。
長い髪から水をポタポタ垂らしていた。

下を向いたまま立っていた。窓一杯のとこに立っていた。

ここで母はまた背筋を寒くする。
立てるはずなんてない。

窓と湯船の境には、肘をつくのがようやくのスペースしか無いのだから。

浮いてる?
そう言えば女の体は微かに揺れている気がする。

湯煙でよくわからない。
母も叫び声を挙げてしまった。

二人は駆け出した。
体なんか拭いてられない。

急いで浴衣を身に付けると、自分の持ち物もそのままに廊下に飛び出し、一番手前にあった寿司バーに駆け込んだ。

「なんかいる!なんかいるよ、お風呂に!」
娘は大声で板前さんに叫んだ。

最初は怪訝そうな顔で二人の話を聞いていた板前さんも、次第に顔が青冷めていった。

「その話、本当なんですよね」
「こんな嘘付いたとこでどうにもなんないでしょ」

娘はバカにされた様な気がして、思わず怒鳴りつけてしまった。

それに母も続けた。
「私も確かに見てしまいました。本当です」
母のその一言を聞いた板前は、どこかに電話を掛けた。

しばらくすると、ここの女将さんらしき女性がやって来た。

すこし落ち着きを取り戻した母子は、なにか嫌な事があったのだな、と直感した。

女将さんは軽く挨拶をすると、ゆっくり話しはじめた。

5年程前、一人の女がこの旅館にやって来た。
髪の長い女だった。

なんでも、ここで働きたいという。
女将は深刻な人手不足からか、すぐに承諾した。

しかし、女には一つだけ難点があった。
左目から頬にかけて、ひどい痣があったのだ。

「失礼だが接客はして貰えない。それでも良い?」
女将は聞く。
「構いません」
女はそう答えて、この旅館の従業員となった。

女はよく働いた。
それに、顔の印象からは想像出来ない明るい性格であった。

ある時、女将は女に痣の事を聞いてみた。 嫌がるかと思ったが、女はハキハキと教えてくれた。

ここに来る前に交際していた男が大酒飲みだった事。その男が悪い仲間と付き合っていた事。 ひどい暴力を振るわれていた事。

「その時に付けられた痣なんです」
女は明るく答えてくれた。
「そんな生活が嫌になって、逃げて来たんです」
そう言う女の顔は、痣さえなければかなりの美人だったらしい。

それからしばらくして、この旅館に三人のお供を引き連れた男がやって来た。

そして、ある従業員に写真を突き付けた。
「こいつを探している」
あの女だった。

もちろん「知らない」と答えて追い返した。

しかし、ここは小さな温泉街。きっとわかってしまうに違いない。

そう考えた女将は、方々に手を尽くして女を守った。

しかし女は恐怖で精神が参ってしまった。

あんなに明るかったのに、ほとんど口を聞こうとしない。

女将は心配したが、女は大丈夫と言うばかり。

ある日、定時になっても女が出勤して来ない。

電話にも出ないし、部屋にもいない。

結局どうにもならないので、無断欠勤という事にしてしまった。

ところが。
「大変。女将さん大変よ!」
何事か。従業員に連れられて向かったとこは、風呂場だった。
そこに彼女はいた。

窓の外、向かって右に立つ大きな松の枝に首を吊っていた。急いで降ろしてやったがすでに死んでいた。

悲しい事に、おそらく女は死ぬ前に髪を洗っていたようだ。自慢のタネだったのだろう。

まだシャンプーの匂いが漂っていた。

不吉だという事でその松は切り倒された。

髪の巻き付いた長いロープと一緒に寺で燃やして貰った。

「・・・それで、彼女がぶら下がっていた場所というのが、お客さんが、その『何か』をご覧になった場所だったんです」

女将さんはそう言いながら、母の目をみつめていた。